「私淑する」という表現がある。
辞書を引くとその意味は「ある人をひそかに手本として学ぶ」とある。
僕にとって、司馬遼太郎はそのような人であるといえる。
しかしそのことを悟った時には、この偉大な作家はもはやこの世にはいなかった。
その名は、おそらくは既に中学生の頃から知ってはいたと思うが、
きわめて不覚にも、自分にとって何らかの意味合いのある名前であるとはつゆとも思わずに来た。
歴史小説という分野を古色蒼然たる内向きの世界、あるいは通俗活劇の世界であるとの認識をもって避けていたためである。
しかしある時、「翔ぶが如く」という大作の一巻目に目を通すこととなる。
その巻頭のわずか数頁からでさえ、ジャーナリストの視点に基づく人間と国家に対する深い洞察、
清廉かつ現実的な、骨太な理想主義の香りが匂い立ってきたのを覚えている。
歴史を語るとはこれだ。
頁を繰るごとに、直観的な、わくわくするほどに高い格調の、透徹した考察と思索に基づく人間の歩むべき道筋への提言が、膨大で奥行の深い調査、取材、論考の向うからはっきりと立ち上がってきた。
そしてその日から、司馬遼太郎は僕の私淑する人となった。
のぼっていく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、
それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。  『坂の上の雲』より
この表現に込められた「志」の、若々しい廉直さ。
それは、この日本という国の出口の見えないこの時代に、巨星司馬遼太郎が残した精神的遺産なのである。

 



司馬遼太郎BBS

Click here to visit our sponsor