1960年代に生まれた人間にとって、ビートルズは完全な「原体験」ではない。
放課後のソフトボールや自転車遊びに熱中していた小学生時分にもう彼らは解散してしまっていたのだ。
一世代上の「カッコイイ」兄ちゃん達がビートルズを聴き、語り、追いかけ、哲学しているのを、はじめはポカンとそれから眩しく、僕らは見ていた。彼らはいつも先をずんずん歩いていき、決して僕らを振り返りはしなかった。
そう、僕らは遅れて来た少年達だった。
しかし、やはり、僕らはビートルズを聴き始めた。まるで外国の文学全集を一巻ずつ紐解くかのように。
そしていつのまにか大人になり、久しく彼らの音楽から遠ざかっていた僕らは今ふと気づく。
ビートルズを聴くと、秋の陽射しに照らされた放課後の校庭を思い出す、と。
それは、なぜだろうか?

60年代生まれは、「団塊」と「新人類」の間の穏やかな時空間を生きて来た。遅れて来た少年達は、”未来”という言葉に何の疑念も持たなかった平和な時代の無垢さを結局は捨ててはいないのだ。
ビートルズという兄貴達の世代の自由を眩しく感じながら、僕らの心は草野球の真っ直ぐさから離れることができないでいる。無茶苦茶をすることも無関心のままでいることもよしとしない60年代生まれ。
その青春、今、そしてこれからについてこのセクションでは語りたい。
僕らが生きて来たこの国への、僕らなりの矜持として。


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