今回はしもとひでとは、時事に対してリアルタイムのコラムを書いてきた。
わが日本の誇る”トルネード”野茂。彼のメジャーリーグ入り2回目のノーヒットノーラン、しかも史上4人目となるア・ナ両リーグで達成した快挙('01/4/5)についてだ。
しかしスポーツコラムではない。比較文化論である。


<第2回>

「組織という色眼鏡」


4月6日の日本経済新聞の春秋(コラム)が野茂投手のノーヒットノーラン(英語ではノーヒッター)に関連して、「それにしても敵地にきた日本人投手の快投に観客が総立ちで声援するとは」と。なるほど、そうきたか、コラムニストもやはり日本人だ。また、一方で、この表現で「おや?」と思う私は何者かともも思うが・・・。よく考えて欲しい。この場合のアメリカ人の反応は、極めてシンプルだ。「すごいものはすごい」。これだけなのだ。ノリが軽いとも言るが・・・。一方、日本人は、どうしても「敵地」「日本人」という色眼鏡を通して事実を見てしまう。素直に、自らの裸眼で目の前に広がる事実を見ることができない。

欧米生活8年超の経験で、「日本の集団主義や西洋/アングロサクソンの個人主義と言われるものを平易な言葉で言うと、個人が『点線』で集団が『実線』なのが日本、個人が『実線』で集団が『点線』なのが西洋/アングロサクソン」が、私の信じるところである。違う言い方をすれば、日本は「個人−組織−社会」という世界観を持っているし、一方、西洋/アングロサクソンの世界観は基本的に「個人−社会」だ。「個人−社会」をベースにすれば、「目の前に繰り広げられすごいドラマは、自分が所属する組織に関係なく、すごい」という日本人からすれば意外な行動が理解できるはずだ。野茂投手は、「アメリカ人がいかに野球を愛しているか歴史を感じた」と言ったそうだが、残念ながらこのコメントは暴投ではないが「ボール」だ。

近年、西洋は近代技術で発展したが、その昔は、食うことや生きることに困ることの多かった社会だった。西洋の土地の生産性は日本に比べて何分の一であり(土地がやせており)、歴史的にも多くの飢餓死がでた。また、陸続きに多くの民族がいたこともあって争いが多かった。つまり、目の前の厳しい日常生活、過酷な生存環境、突き詰めれば「死と隣り合せの自分」こそが、西洋人/アングロサクソンの遺伝子に組み込まれた性格の核の部分なのだ。つまり、また、ここ(生死の淵からたたき上げられた「攻撃性」)までさかのぼらないと西洋/アングロサクソンの個人主義や、英語のはっきりとストレートな表現の根の部分には触れられないと思う。

話はやや大きくなってしまった。日本は、西洋/アングロサクソンに比べれば、恵まれた環境にそだった「お坊ちゃま」。ガツガツと「個」などと言わなくても、生きてこれた。まあ、最近、余りにも「個」を失いすぎたので揺り戻しが起こっているが。それでも、西洋/アングロサクソンのように筋金入りの「個人主義」になることは難しいであろう。このコラムに特段の結論はないが、「個」「組織」「社会」をあらためて考えるきっかけになればと思う。


コラムニスト:はしもとひでと
E-mail: HidetoH@msn.com
Website: はしもとひでとのバーチャル書斎

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