今回のはしもとひでとは、悩んだようだ。悩んだ末の、クリーンヒットである。
「ボールパーク」と人々が呼ぶアメリカの野球場の美しい芝の上を白球がスーッと転がって左中間を抜けていった感じだ。
それにしても"A Thinking Person"である。
日本のサラリーマン社会では「ま、そうむずかしいことばっかりゆうてんと、一杯行こや」と言われそうである。しかし、飲みに行った先でも「むずかしいことゆうて」そうだが・・。
それはともかく、ここでは突然僕のことも出てきたので面映い。「60年代生まれ」に根ざした自尊心ねえ。自尊心はまあ別の各所にあるのだが・・(笑)。60年代に関しては自尊心と言うより「吟侍」と呼んだ方がピッタリ来るかな・・・。
ま、それをいろいろ語るのは野暮。ここは筆者のヒットの軌跡をご確認いただきたい。


<第5回>

『自尊心』


【週刊早坂久美子だよ♪】第5号「ガケップチの女たち」が、「自尊心」という言葉をシャープにとらえた。曰く。
「周りの人が、または社会がいくら認めてくれても、自分自身が自分を認めていなければ、決して自尊心は得られません。」
「これだー!」
前号(第4号)では相当力んで私は、「個々の人間は自らの拠り所を、自らの力で人生を『再定義』した結果得られた『志』に求めるしかない。先人達もこの『再定義』をいろいろな言葉で表現している。」などと述べた。
実は、なんと固い表現と自己嫌悪寸前だった。そこに、スーと現われた「自尊心」という言葉。「志」を立てるにはまずは「自尊心」がいる! 

便利な時代だ。問題意識さえあれば、検索エンジンがどんどん深いところに誘導してくれる。早速検索エンジンに入れて知恵を授かってみよう。
「高い自尊心とは、人が自分の境界を知り認めていくこと。自分が完全でもない万能でもないことを認め自分から逃げないで、快い自己イメージを持ち、そのイメージに『いとおし』感情を自分がもっていること。」
「ごまかすことなく人生の無意味さに直面できる能力がない私たちにとって自尊心(精神防御システム)は、健康的に生活するのには必要である。」
「自尊心を持つことは、相手を低く見下げることや見栄をはるという他人を意識しての態度とは違う。『私はやれば出来る。必ず成功することができる。なぜなら私は幸せになる価値のある人間だから』という自分自身への信頼と、自信を持っているということ。」
「木々の成長には根が必要なように、心の成長には自尊心が大切な役割を果たす。」
などとでてくる。
なるほど。そういば、カントリー・オンラインの編集長の「自尊心」は、「60年代生まれ」と深くつながっている・・・・。

自らのメルマガで「自尊心」を読者に問うてみた(パーソナルメディアを持っているとこういうことができる/便利な時代だ)。「自尊心が低い?少ない?ない?という人は、犯罪・自殺など世間的にはドロップアウトしやすい。」などのコメントが返ってくる。あらためて、精神防御システムとしての「自尊心」を感じる。要は、「志」を得るにはそのベースにまず「自尊心」が必要だということだ。
昔、「日・米・英の教育文化比較」と題したコラムで、「少年スポーツで、子供が失敗した時大人は、アメリカでは『グッドトライ』と言い、イギリスなら『楽しみを次にとっておいたね』ぐらいのジョークになり、日本だと『だめだなー』となるのではないか。これは、ふと思いついた、日・米・英の比較であるが、一事が万事のような気もする。」と記したことがある。日本の「だめだなー」の裏には、「次回頑張れよ」というメッセージが暗示されているのだろうが、少なくとも表面的には「自尊心」にはネガティブインパクトがある表現だ。また、戦後の日本は、良い成績−良い学校−良い就職/終身雇用−良い結婚−良い住宅・・・と、この価値観に一抹の疑義を持ちながらも「経済成長」という薬でどうに走ってきた。そのような中で、「自尊心」よりも「優越感」が幅を利かせてきたような気がする。「優越感」とは、相手を低く見下げることや見栄をはるという他人を意識しての感覚だ。一方、「自尊心」の原点は自分だろう。

何が言いたいか?
人間の人間たる由縁は「志」。「志」を得るには「自尊心」という足場が必要である。ただし「自尊心」は「優越感」とは違う。「人生の無意味さ(=受け身で始まる人生)」をまともにとらえたら人は狂い死にする。 そこで、「志−自尊心」となる。さらにその外堀は「愛」ではないかと閃いた。それは次回以降に。
すこしはソフトになったかも?


コラムニスト:はしもとひでと
E-mail: HidetoH@msn.com
Website: はしもとひでとのバーチャル書斎

このコラムの
感想はココ




| 第1回 | 第2回 | 第3回 | 第4回 |
Click here to visit our sponsor